崔 善愛著の『父とショパン』(2008年、影書房)を読み終えた。これは、今度、崔 善愛さんを教区の集会の講師としてお迎えするので、その準備の意味もあって、読んだのであるが、今後、私が進むべき方向に重大な示唆を与えてくれた。
この著作は、日本社会、日本という国家を考えさせてくれる基本的な著作と言えよう。わたしが、これまで十分見通すことのできずにきていたことが、この著作によって、一挙に切り開かれて、遠くからであっても見えるようになってきた気がする。
これから、この著作は、わたしがものを考える上で、常に導きとなってくれるだろう。自分では気づけない自分の日本人性というものに気づかせてくれる稀有な書物だ。
責任ということをキーワードに考え始めたが、「日の丸・君が代強制問題」と「教団の戦争責任問題」に取り組むことが、今日、日本基督教団の属しているキリスト者の責任ではなかろうか。もちろん、他にも責任はある。しかし、わたしの場合は、それに集中したい。32歳ぐらいからは、福音宣教を第一、説教第一と考えて、この30年間歩んできたが、それはそれでよかったとも思うが、やはり足りないことがあった。問題のところがあった。それに取り組みたい。
この著作は、日本社会、日本という国家を考えさせてくれる基本的な著作と言えよう。わたしが、これまで十分見通すことのできずにきていたことが、この著作によって、一挙に切り開かれて、遠くからであっても見えるようになってきた気がする。
これから、この著作は、わたしがものを考える上で、常に導きとなってくれるだろう。自分では気づけない自分の日本人性というものに気づかせてくれる稀有な書物だ。
責任ということをキーワードに考え始めたが、「日の丸・君が代強制問題」と「教団の戦争責任問題」に取り組むことが、今日、日本基督教団の属しているキリスト者の責任ではなかろうか。もちろん、他にも責任はある。しかし、わたしの場合は、それに集中したい。32歳ぐらいからは、福音宣教を第一、説教第一と考えて、この30年間歩んできたが、それはそれでよかったとも思うが、やはり足りないことがあった。問題のところがあった。それに取り組みたい。
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by iesukirisuto
| 2009-12-10 15:17
| 評論