森有正「パスカルにおける『愛』の構造」再読
2011年 02月 23日
「パスカルにおける『愛』の構造」を再読した。これは、森の「デカルトの人間像」を再読した後、課題としてのぼってきたものである。森有正のデカルト理解をある程度理解した段階で、彼のパスカル理解をあらためて知りたくなったのである。前より、わかるようになっているだろうという予感があった。
実際、そうであった。その後、パスカルの「パンセ」をところどころ読み直してみると、今までとまるで違って、パスカルの肉声が聞こえてくる思いがする。パスカルがやっと、自分に近いものとなりつつある。
さて、森有正のこの著作を読みながら、思ったのは、この著作も、先の大戦中に書かれたものだった。そして、西田幾多郎の「デカルト哲学について」もそうだった。北森嘉蔵の「神の痛みの神学」もそうであるし、熊野義孝の「基督教概論」もそうであるし、バルトの「教会教義学」もそうであるし、ボンヘッファーの諸著作もそうである。
自分でも気がつかないながら、先の大戦中に書かれたものを中心に読んでいたことに気づいた。これは、偶然ではないだろう。
やっと、自分が生まれる直前の時代まで近づいている気がする。
問題は、現在のことなのであるが。なんと遅々たる歩み。
実際、そうであった。その後、パスカルの「パンセ」をところどころ読み直してみると、今までとまるで違って、パスカルの肉声が聞こえてくる思いがする。パスカルがやっと、自分に近いものとなりつつある。
さて、森有正のこの著作を読みながら、思ったのは、この著作も、先の大戦中に書かれたものだった。そして、西田幾多郎の「デカルト哲学について」もそうだった。北森嘉蔵の「神の痛みの神学」もそうであるし、熊野義孝の「基督教概論」もそうであるし、バルトの「教会教義学」もそうであるし、ボンヘッファーの諸著作もそうである。
自分でも気がつかないながら、先の大戦中に書かれたものを中心に読んでいたことに気づいた。これは、偶然ではないだろう。
やっと、自分が生まれる直前の時代まで近づいている気がする。
問題は、現在のことなのであるが。なんと遅々たる歩み。
by iesukirisuto
| 2011-02-23 09:31
| 随筆